竹内街道は作家の司馬遼太郎によると、日本一素晴らしい街道である。竹内峠を境とし太子町から長尾まで続き、近鉄南大阪で見ると、166号線が平行しており、どの様な感じかわかる。
歩くことを考え、街並みを楽しめる所を散歩することにした。
堺から古市、竹内峠、長尾、総距離は26~30kmであり、歩ける人は、1日で歩ける様だが、私は歴史を調べる為に2時間程度歩けば良しとした。
まずは近つ飛鳥博物館に行った。
今回は竹内街道の散歩と聖徳太子の事を知りたかった。
喜志からバスに乗り阪南ネオポリスにて下車し博物館へ。
フランクロイドライトが設計した落水荘のアプローチの様な丘陵、林間を進み到着する。中央部には仁徳天皇御陵の模型モデルが有り円形の周囲には、古代の品々が展示されており、聖徳太子の物もあった。聖徳太子について、現在の文献では、実在の人物では無いと言う説が出ている点も注目であった。
内部にある資料では、大坂南部飛鳥だけでなく、中部、関東の遺跡の資料までも揃っていた。
建物外部は階段状に成っており、中央部に塔がある。黄泉の国を表現していると説明されていた。
帰路、古市に寄り、通いなれた小学校へ行く、木造の古い校舎と体育館はすでになく、鉄筋コンクリートの建物に代わっていた。
石川まで歩き、昔の街道を見ることを楽しみにしていたが、木造の雰囲気ある街道は、ぽつぽつと残っている程度である。
私は、小さい頃ここが竹内街道とは知らなかった。
竹内街道は官道第1号であり、推古天皇の時代シルクロードの終点に明日香との交流で作られた、羽曳野市蓑の辻の道標(1848年建立)がある。ここは昔、銀行があり、守衛室に友達がいたので、よく遊びに行っていた。 |
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現在の羽曳野市は南河内郡古市と言う名前だった。幼稚園があった場所の近くに居酒屋「山吉」があり、ボタン鍋で夕食を頂きつつ、小さい時を思い出して楽しんだ。また、幼友達は今如何しているのだろうかと。
奈良平野と大坂平野を楽しむ為ケーブルカーにて葛城山に登る。早朝のため、乗客は少なくゆっくりできる、山の野草をカメラで撮る人が2人いたので、山の説明をしてもらった。
奈良平野は、畝傍山、耳成山、香久山、甘糟丘、三輪山、平城宮と良く見えた。ここに平城京が出来たのは地理的に防衛上良い場所だったからなのか。
大坂(昔は大坂今は大阪)平野と大阪湾を見たかったが霞んでいた。冬の寒い時だと見えるのかも知れない。
午後楽しみの竹内街道歴史資料館と叡福寺内の聖徳太子御陵に行く、上ノ太子駅より資料館まで、古い街並みを見て昔の風景を想像する。
住宅は屋根を強調するデザインでむくりのついた瓦屋根、棟瓦も段数が多くどっしりして何代も住み続けているのがよくわかる。
推古天皇21年西暦613年頃に道路が作られたようだが、竹内街道と名前が付いたのは、17世紀中頃の絵図に記載されている。
聖徳太子御陵は、菊のご紋章が正面にあり中には入れない、叡福寺売店では太子の説明本があるが、現在の不在説の説明書は見ていない、17条憲法は誰が作ったのか。
司馬遼太郎記念館に行く、作品を作るために資料として6万冊の本があり、広い範囲と、関係の推測のため徹底して作品が出来ている。そのことに歴史小説家としてファンが沢山いる。
記念館は多数の善意で建設されたものである。
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